伝道の実より「悔い改め」の実を

ある人がイエス・キリストに忠実に歩んでいるかを計る時、「伝道の実」によって見分けるという人がいます。

マタイの福音書 7章16-20節(新改訳第3版) あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうをいばらから取ったり、いちじくをあざみから取ったりすることがあるでしょうか。 同様に、良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けるのです。

しかし、私はその見方だけでは不十分だと考えます。
なぜなら、たとえ千人の教会を育てた有名な牧師であったとしても、もしその牧師が偽りの教えを説いていれば、それは熱心に地獄の子らを増やしているだけ、という恐ろしい事態が起こり得るからです。ですから、伝道の実の大きさだけでは、その人が本当に神様の側に立っているのかを見分けることはできないのです。

イエス様ご自身が、熱心に人々を自分の教えに引き入れながら、かえって悪い結果を招いている宗教家たちを、こう言って厳しく非難されました。

マタイの福音書 23章15節わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、ひとりの改宗者を得るために海と陸とを飛び回っているが、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナ(地獄)の子にするからです。

また、「聖霊の賜物(いやし、預言など)があるから、あの人は本物だ」と考えるのも十分ではありません。聖書には、主の御名によって力ある奇跡を行いながらも、最終的に「わたしはあなたがたを全然知らない」と退けられてしまう人々がいると、はっきりと書かれています。

マタイの福音書 7章21-23節 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣言します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

では、何が本当にイエス・キリストに忠実に歩んでいるかどうかの、確かなしるしなのでしょうか。

私は、その人が「悔い改めの実」を結び続けているかどうかが、最も重要な鍵となると信じています。聖書は一貫して、悔い改めが具体的な行いとなって現れることを求めています。

マタイの福音書 3章8節
悔い改めにふさわしい実を結びなさい。

使徒の働き 26章20節
まずダマスコにいる人々、次にエルサレムにいる人々やユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと宣べ伝えて来たのです。

この「悔い改め」がどれほど決定的に重要であるか。その究極の実例が、イスカリオテのユダです。

彼は、イエス・キリストの十二弟子の一人として選ばれ、主と共に寝食を共にし、悪霊を追い出し、病を癒す権威さえ与えられていました。しかし、彼は最後まで悔い改めなかったために、銀貨三十枚で主を売り、永遠の滅びに引き渡されたのです。

伝道や奇跡といった外面的な実はあっても、悔い改めの実がなければ、人は滅びてしまう。聖書が示す現実は、これほどまでに厳しいのです。

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